横浜にて
木枯らしと赤い木の葉
あれから、半世紀が経った。マリアは還暦になった。
十二月の木枯らしの吹く日、マリアは横浜の異人街に来ていた。知人のお花の展示会を見て、帰路についたところだ。
どこにも立ち寄るつもりはなかった。寄り道だの、スイーツだの、マリアは相変わらず興味がなくて、早く家に帰って繕い物をしたり、小説が書きたいと急ぎ足だった。

マリアは結城紬のほくほくとした絹糸に包まれていた。老いてメリハリを失った体によく馴染んで、マリアの体を豊かに見せてくれた。
草履の足元に赤い広葉樹の葉がくるくると舞って、マリアに悪ふざけをしてくる。足がもつれてしまいそうだ。立ち止まると、木枯らしも止まって、赤い木の葉は、マリアの裾に張り付いた。
マリアはその赤い広葉樹の葉を手に取った。

マリアは目を見開いた。
あの時の、十一歳の秋に、麦ちゃんからの手紙に入っていた、あの赤い紅葉樹の葉だ。
はっとして、マリアが顔を上げると、右手には砂糖菓子のお店、そして左手には外国人の墓地があった。マリアは居てもたってもいられず、赤い木の葉を手早く帯の間に挟みいれると、砂糖菓子の喫茶店に入った。
お店に入るとクリスマスの砂糖菓子がレジの横に高く積まれている。マリアは思わずドイツの砂糖菓子をひとつ手に取るとお会計を済ませた。
しばし悩んだ後に改めて席を見回し見晴らしの良い窓際に向かった。重厚なデザインの椅子を引くと、床の上で鈍い音を立てた。

コーヒーを飲もうと思ったが、麦ちゃんのことを思い出し、お紅茶を注文した。麦ちゃんが愛したダージリンだ。
お紅茶は麦ちゃんの好きそうな、きどった異国の器で出てきた。
若々しい香りのダージリンは、未熟な少女の思い出と重なった。
昔々に、真夏の日差しに照らされた、青々しい草むらのにおい。完熟したトマトの甘やかなにおい。そして麦ちゃんの小麦色の肌からいつもほのかに香った海のにおい。思い返せば麦ちゃんはほんの春と夏しか居なかったのだ。
左手にあった外人墓地を眺めるために、砂糖菓子のお店には入ったが、マリアは外人墓地に立ち入って何かを探すような事はするまいと思った。

紅茶を飲み終え、砂糖菓子を持ってお店を後にした。
マリアは何も確かめなかった。あの時の夢を、あの時の希望を、壊そうとは思わなかったからだ。
「麦ちゃんは横浜の街のどこかで結婚して、子供に恵まれて、今は孫にも囲まれて、きっと幸せに暮らしている・・・・・」マリアは小さく呟いた。
楽しいことや新しいことに気移りしやすい麦ちゃんは、マリアへの連絡など忘れて、幸せいっぱいに生きているに違いないと、そう胸の中にしまうことにした。
家に帰ると赤い広葉樹の葉を、思い出の古い本に挟んだ。
実家にて
解体の連絡
「マリア、あの家を手放すことになったから、片付けてちょうだい」東京に住むマリアの元に、あの人からのメッセージが届いた。お隣の娘さんが結婚して、あの家を欲しがっており、破格の高値で買ってくれると言うのだ。
マリアはタイムカプセルのようなみかん箱を開けるために実家に帰ることにした。
実家に帰る日、マリアは縦しぼの上等の小紋の着物を選んだ。あの人の振袖を染め直したものだった。

飛行機から降り立つと、そこには南国の太陽がギラリと海を照らしている。
「明日は夏色のワンピースに着替えたほうがよさそう」
マリアは相変わらず数少ない汽車に揺られて実家へ向かった。
汽車からの景色は何一つ変わっていなかった。相変わらず馬が散歩をし、赤いカンナが咲いている。早咲きのひまわりがとっくに満開になっていた。

時間の宝箱
マリアは実家に帰ると、挨拶もそこそこに、マグカップに注いだぬるいお茶をあおると、すぐに二階の屋根裏風の部屋に向かった。その部屋はもうマリアの物ではなかったが、みかん箱だけがひとつ、残されていた。
みかん箱以外は、カーテンもベッドも机も様変わりをしていた。ひび割れた化粧台は、とうの昔に仕方なく処分した。
変わり果てた部屋の中で、あの時のままのみかん箱を、マリアの老いて骨ばった手がそっと開けた。

ひとつ・・・・・ヒーローの毛布。痩せた手が古臭い毛布を撫でる。ヒーローが死んでから二、三年は懐かしいヒーローのにおいがした。五年、六年と経つうちに、においは消え、それはただの朽ちた毛布になってしまった。もう三十年が経った。この毛布とはお別れをすることにした。
ヒーローがやってきたのはマリアが十二歳の時。節分の後だった。二人の少女と海や野を駆けまわったころのヒーローは、ゼロ歳から二歳。ヒーローにとってもかけがえのない青春だったに違いない。
ヒーローは五歳を過ぎるころから物静かになり、七歳を過ぎると窓際で眼をしょぼしょぼさせて、眩しそうに庭先の光の粒を一日中見ていた。人間には見えないほどの小さな光の粒を見つけては、得意そうにしていた。それは小さな塵が反射させた夕日だったり、天気雨の雨粒を宝石のように輝かせる昼間の太陽の粒だったりした。
「ヒーロー何を見ているの?」尋ねるといつも
「ほら、ここに」と光の粒を瞳に写した。

ふたつ・・・・・麦ちゃんからの手紙。十一歳のあの秋の日に受け取った無言の手紙だ。中の木の葉は朽ち果てている。宛名も麦ちゃんの文字ではない。このお手紙ともお別れをすることにした。
みっつ・・・・・桃子ちゃんが持たせてくれた記念銀貨。何かあったときのためにと、桃子ちゃんがこっそりマリアに渡してくれたお金だった。子供のころは新しく発行された五百円玉だと思っていた。マリアは大切にその銀貨を鞄にしまった。
よっつ・・・・・桃子ちゃんとおそろいのワンピース。レモンイエローにサクランボの模様のワンピースだ。広げるとしみが出来ていた。そのしみはあの頃の早苗がわんぱくをしてつけたものだった。マリアはくすりと笑って、そのワンピースとのお別れも決めた。
桃子ちゃんは数年前にガンで亡くなった。医学の進歩で二人の男の子をもうけることが出来た。実子が居たため、マリアは桃子ちゃんに最後のお別れをすることは叶わなかった。あの人に結婚の報告を頼んだが、あの人は最後まで桃子ちゃんにそれを報告することはなかった。
マリアを子供のようにかわいがってくれた桃子ちゃんは、マリアが結婚することを知らずに亡くなった。
お母さんのような桃子ちゃんだったが、マリアはひとつだけ恨んでいることがあった。桃子ちゃんが死んだヒーローの亡骸を抱きしめて放してくれなかったことだ。マリアはまだ暖かいヒーローの亡骸を抱くことは叶わず、冷たく硬くなったヒーローを抱きしめた。
いつつ・・・・・みかん箱そのもの。朽ちてゆがんで変色したみかん箱はここでお別れだ。蓋の上の半世紀ぶんの色合いをそっとなでると、お父さんに薪にしてくれと頼んだ。
むっつ・・・・・これはみかん箱の中ではないが、マリアは古い足踏みミシンを、思い切って東京に運ぶことにした。マリアが二十代の時に日本で最後に作られたシンガー188モデルだ。

ミシンの配送の手配をし、みかん箱のタイムカプセルを片付けると、もうマリアの住むところのないその家を足早に後にした。
「あの子はもう行ったのかい。何も言わずに」老夫婦には広すぎる家の台所で、あの人はマリアの育て方を後悔していた。
「世間のことは何も分からないように育てたはずなのに、なぜ東京に出て行ってしまったんだか。
あれほどかわいがったのに恩知らずな子だよ」力のない細い指が昔の葬式用の有田焼の湯飲みを包み込んでいた。
生まれ育った野原
まだ外は明るかったので、近所を一巡りすることにした。かつて野いちご狩りをした小道には、もう苺は無かった。畑と田んぼは変わりなく広がっていた。
かつての嵐の日に、か弱くて倒れてしまった杉の木も、今ではそびえ立つ素晴らしい杉の木になっていた。五十年という歳月はなんと偉大なことだろう。
鳩のスーパーの後にできた、アドバルーンのスーパーは元気に運営していたが、もうアドバルーンが上がることはなかった。
ちょっとずつあったお店のほとんどが自動販売に変わっていた。牛乳の自動販売機。クリーニング屋はコインランドリーに。野菜は無人販売に。ガソリンはセルフに・・・・・
この田舎町は人がいないまま、死んだように息をし続けていた。
そんな中、病院と老人だけが増えて賑わっていた。かつて小さな町医者だった病院は、国道の両側に建つ、RC建築の総合病院になっていた。
この田舎町は老人と病人で利益を得ているのだ。その向かいには有名チェーンのメガネ店が、これまた老人たちを相手に繁盛していた。若者の姿は無かった。
もう少しゆっくりしたかったが、明日は春子ちゃんに会う約束をしていた。春子ちゃんのプレハブ小屋にも行く予定だ。
駅に向かう海への道を歩いた。畑と田んぼしかない田舎道に、今も無駄に大きい道路だけがあった。道路わきの畑には小さな簡易的なお地蔵さまが点々と続き、今も昔も変わりなくのどかで美しかった。

駅前の無駄に大きいロータリーにも、車は無かった。かつては赤かった駅前の公衆電話が、今は緑色に変わっていた。


