自転車を届けに
少ない交通
電話を切ってすぐマリアは春子ちゃんのおばあちゃんの家に自転車を取りに行った。
そのままバス停まで時刻表を見に行くと、夕方に一本だけ田舎町を通過するバスがあることを確認できた。帰りは上手にこのバスに乗りたかった。

汽車は二時間に一本安定して走っている。
家に帰ると春子ちゃんの自転車を自宅の私道の横の薮に隠した。
戸棚のお菓子をふたつかみ、行動食としてキルティングのトートバッグに投げ入れた。
移動距離が長いので、自転車の空気入れと、簡易修理用の黒いビニールテープを用意した。
明日の朝なるだけ早く出発したかった。
というのも、春子ちゃんの住む少し大きな町に行くには、厄介なところを通過しなくてはならなかった。
大きな町に行くための道は二つ。何もない国道か、薄暗い田舎道。
田舎道は所々にお店も点在しており、信号もなく、車もあまり通らず、安全ではあったが、幽霊坂と言う有名な暗い森があった。そこではしょっちゅう交通事故が起こり、急な坂道からの転落も多かった。
その昼でも暗い坂道は午前中に通過しておきたかった。
翌朝、エメラルドグリーンのサブリナパンツを履き、ブルーの長袖のストライプのシャツを着て、シャツの裾をウエストで結んだ。

大きな塩にぎりを適当にまとめると、水筒に水道水を詰め、自転車の空気入れを荷台にくくりつけた。
今回はヒーローは連れていけない。
「太陽が沈む前に帰ってくるね」とヒーローの頭をなでると、夜明けとともに、マリアは自転車をこぎ始めた。
三月でよかった。夏だったらきっと地獄の道のりだっただろう。
春のまだ冷たく、透明な朝の空気の中を、爽快に自転車で海への坂をかけ降りた。あの夏の、嵐の過ぎた朝に駆け下りた道。麦ちゃんとあさ子ちゃんの居たあの海への坂道だ。
自転車の旅は快調だった。春子ちゃんの自転車は上等で堅牢だった。
ヒメジオンの咲く田舎道を走り抜け、きんぽうげの辻を曲がり、海の見える田舎道をひた走った。
旅の長さを思うと、楽しいばかりとは言えなかったが、気持ちよかった。マリアが自転車を届けることを引き受けたのは、面白そうだったからだ。
海沿いの畑にとうもろこしの赤ちゃんが小さな実をつけていた。小学生の時にデパートに向かう汽車の窓から見た景色を、今は自転車をこぎながら見ていた。
もうすぐ幽霊坂だ。事故の多い場所なので、気を引き締めていこう。
肩を回し、深呼吸をした。
「よし!行こう」
自転車を漕いでいると晴れていた空が少し曇り始めた気がした。
「おかしいなぁ。天気予報は晴れだったのに」
幽霊坂
曇り始めた空
自転車をぐんぐんこいで、野菜の無人販売所を抜けると、いよいよ木々の生い茂る幽霊坂だ。自転車を降りて押さないと登れないほどの、急な上り坂だった。
空はますます曇り、薄暗くなってきた。
これから幽霊坂を超えようと言うのに、どうしてこんなに空が暗くなるのか。山の神様が怒っているかのように恐ろしく感じられた。
ここに居る幽霊を単なる幽霊と言う者、山の神様だという者、木々の精霊だという者、はたまた事故の被害に遭った怨霊だと言う者など、さまざまな説があった。
幽霊坂の入り口に来た。幽霊坂の手前までは開墾され、畑が広がっており、明るく人の生活が感じられたが、幽霊坂は急な山の斜面のため、木の伐採が全くできていなかった。森の中は夜のように暗い。
人々は、まるで獣のように、その急な坂道を根気よく登っていくしかなかった。
かろうじて小さな車が一台通れるほどの道路が作ってあった。
空はますます暗くなり、幽霊坂の入り口で自転車を降りて押していると、目の前にひとり、幽霊が立っていた。
暗い坂道の中に、ピクリとも動かず、帽子のつばをこっちに向けて、じっとたたずんでこちらを見ている。それは怨霊というよりも精霊のように感じられた。

暗い森の中は、まるで夜のように視界が悪かった。
不思議なことに怖いとは思わなかった。それよりも今から迂回して国道に出ることが時間的に可能かどうかをまず考えた。
国道に迂回する事は時間的に難しいと思われた。
幽霊坂の幽霊
どうしよう。幽霊だって人間だ。こんにちはと言って通り過ぎれば問題ないに違いない。
だんだんと幽霊に近づいてくる。幽霊は白いキャップをかぶっている。身長もそんなに高くない。おそらく子供の幽霊だろう。
背は低いが体格が良く、お相撲さんのようであった。
さらに近づくと、目が赤く光っていた。怒らせたかもしれない。
マリアはポケットの中のキャンディーとチョコレートをつかみお供えする用意をした。
マリアは勇気を出して、幽霊が突っ立ってる前を通り過ぎようとした。
「こんにちは」と挨拶をし、目をつぶったまま、ポケットのキャンディーとチョコレートを差し出した。幽霊はうんともすんとも言わない。気配すらない。

マリアはうっすらと目を開けた。するとそれは幽霊ではなく白いポストだった。
おかしいったらありゃしない。白いポストに向かってお辞儀をし、キャンディーとチョコレートを差し出していたのだ。
この話を聞いたら、また春子ちゃんがお腹を抱えて笑うに違いない。
マリアは、白いポストに書かれた「悪」と言う赤い文字の瞳をポンと弾くと、また自転車を押して坂道を登り始めた。

隣町
ふうふう言いながら、坂道を登り切ると、目の前に明るい風景が広がっていた。切り開かれた茶畑。草は短く刈り込まれて、整えられた道。
空は晴れやかだ。
そこはもう隣町だった。そう。春子ちゃんと花火を見に来たあの隣町だ。
お地蔵様の横の、短く刈り込まれた草の上で休憩することにした。ここまでで道は半分と言ったところか。
太陽は、真上よりも少し東側、まだ午前中だ。
ここから先どれほどの休憩スペースがあるかわからなかったので、大きな握り飯を食べることにした。塩にぎりとチョコレートふたつをお腹に収めると、残り半分の道のりを走り始めた。

それと、さっきまでは、気がつかなかったが、自転車の空気が減ってるような気がして、空気を入れ直して走った。
幽霊坂でパンクしなくてよかった。あんなとこでパンクしたら立ち往生してしまう。
少し走ると、もう田舎風の風景ではなかった。賑やかな商店街の中を走って行った。
途中、自転車屋さんに立ち寄って、空気が抜けることを相談した。
自転車屋さんで小さな穴を塞いでもらい、残りの道のりを急いだ。
昼過ぎの汽車か、バスに乗らなくてはならないから。
幸い最近できた広い国道があったから、もし迷っても、その国道をそのままに進めばよかった。安心だ。
水筒の水を飲み切ってしまったので、小売り店で甘い缶ジュースを二本買った。本当は真水を飲みたかったが、この時代は小さな缶に入った甘いジュースしか売られていなかった。スポーツ飲料のペットボトルもまだなかった。甘いジュースで余計にのどが渇くように感じられた。
しいたけの原木丸太
マリアは小売り店でついうっかり、しいたけの原木を見つけてしまい、購入してしまった。

重たい原木を自転車の前カゴに乗せて走ることになった。
こんなものを前かごに乗せて走ったことがばれたら春子ちゃんに叱られるに違いない。
ごろごろ、ごつんごつん。しいたけの原木は、前かごの中で鈍い音で転がり続けた。丸太を転がしながら進むと、景色はきれいな舗装道路へと変化し、春子ちゃんが住み始めた大きな町へ到着した。たくさんの車がせわしなく行き来している。
途中のガソリンスタンドの公衆電話から、春子ちゃんの家に電話をかけた。
九コール、十コール、十一、十二・・・・・
なかなか出なくて心配だった。もし誰も出なかったら、知らない町で知らない場所に放置されてしまうことになる。
電話のコールを二十回ほど鳴らしたところで、やっと春子ちゃんが電話に出た。
「今、ガソリンスタンドにいるよ」と春子ちゃんに伝えると、
「わかった。そこで待ってて」と春子ちゃんが言った。
そこでガソリンスタンドの向かいのうどん屋さんで待っていると伝えた。
ガソリンスタンドには大きく
「現金を歓迎します」と書かれていたが、十四歳のマリアにはその意味が全く分からなかった。そのころ普及し始めたクレジットカードは非常に手間だったのだ。
ひとりでうどん屋さんに入るのは初めてだった。以前に、お父さんとあの人と赤ちゃんと入ったことがあるお店だった。
あらかじめお値段がわかっていたので、恐れずに入ることができた。
ヘトヘトで、食べ物が喉を通らない感じがしたので、うどんではなく、かき氷を注文した。
うどん屋さんで水をもらって、がぶがぶ飲んでいると、だんだんと食欲が戻ってきて、かき氷を注文したことをちょっと後悔してしまった。
時刻は昼の十二時を過ぎていた。
かき氷を食べていると、差し入れのポリ茶瓶を手にした春子ちゃんが外から手を振る。

お会計を済ませて、外に出て、自転車を手渡した。
春子ちゃんから、ポリ茶瓶を受け取った。
重たい椎茸の菌床の丸太は、しっかりとバッグに隠してあった。
「すごい荷物だね」春子ちゃんがマリアのパンパンに張り詰めた荷物を怪しそうに見て言った。

「あぁ~、うん。
お腹が空くかなぁ・・・・・とか、途中で怪我?したらとか?いろいろ準備しすぎてしまって・・・・・」
マリアはうまいことごまかしたつもりだった。
「ふーん」
丸太の入ったバッグを春子ちゃんがジロジロ見るので、トートバッグにたくさん入っているキャンディーとチョコレートをつかんで春子ちゃんにあげた。
春子ちゃんはありがとうと言って、そのキャンディーとチョコレートをポケットにしまった。
不思議な行列
春子ちゃんと歩いていると、商店街のあちらこちらで男性だけの行列を目撃した。そうか、今日は月末のお給料日だ。手渡しのお給料をもらうために、月末の午後、サラリーマンが並んでいるのだ。
「あれはなあに?」と春子ちゃんが聞くので
「お給料日だからだよ」と答えた。

「それならどうして男の人だけなの?」春子ちゃんはそう言って、商店街で働く女性たちを見まわした。ご婦人たちは店番をしたり、電話を取ったり、お茶を出して接客をしていた。
「ああいうお仕事はお手伝いと言ってお給料は出ないのよ」マリアが説明すると、都会っ子の春子ちゃんはたいそう仰天していた。
「お給料が?貰えない!?」すぐには理解が追い付かないようだった。
「お手伝いのお給料が出る場合は家長に支払われることが多いよ」とマリアがさらに説明すると、春子ちゃんはさらに理解しがたい様子で頭を抱えていた。
「ピアノの先生とかお習字の先生は月謝が入るし、お裁縫も手堅いよ」とマリアの言葉をきっかけに、三年後に春子ちゃんは数学への道をあきらめ、音楽の道へ進むことになった。
わたしたちの進む道
マリアは国道から三時のバスで田舎町に帰りたいと伝えた。
時間は午後一時過ぎ、ちょっと中途半端な時間だった。
「そうだ!」春子ちゃんが楽しそうに目を輝かせて言った。
「高校を見に行かない?わたしたちが行く高校だよ」
すぐ近くに希望の高校があると言うので、ふたりはその高校をぐるりと回って見ることにした。
正門には玉砂利が敷き詰められ花壇があった。装飾のない、牢屋のように無機質な高校だった。郡部で一番安くて、一番進学率の高い高校だった。ここに入れるのは郡部で上位の四百人だけだ。
マリアはこの時ばかりは私立のミッションスクールのほうが楽しそうだと感じた。
「外からは何もわからないね」
特に楽しくもなく、目を引くものは無かったが、有意義な見学だった。少なくともこの高校へ行こうという明確な目標を、自分の目で見たのだから。
時刻は二時過ぎになり、バス停に戻ってバスを待つことにした。
春子ちゃんの家に立ち寄って、休憩することができたらよかったが、ヘトヘトのマリアは、もうこれ以上の移動をしたくなかった。おとなしくバスを待つことにして、春子ちゃんに手を振った。
バスに乗って残りのお菓子を全部食べて、しいたけの原木を抱きしめてニヤニヤしながら一眠りした。

その後、よく転がって刺激をうけた原木は、元気な椎茸を実らせた。

