咲く桜、散る桜
都会からの先生
満開の桜の門をくぐって、早苗たちは中学校に登校した。入学式の翌日だった。
髪を美しく結い上げた若い先生が歩いている。早苗たちの担任だった。
その先生は都会から派遣された臨時の先生で、洗練された佇まいの人だった。ちらほらと桜の舞う朝日の中で、天女様のようだった。
早苗は走って先生に追いつき
「天羽先生。おはようございます」と挨拶をした。先生は大きな瞳を細めて
「おはよう」と挨拶を返した。その時に、先生の結い上げたうなじに、糸くずが付いているのが見えた。
「あら、先生。うなじにゴミが・・・・・」早苗が手を伸ばすと、先生は少しかがんで首を傾げた。
うなじの糸くずをつまんで持ち上げると、それは桜の花びらだった。
「まあ、先生!散り桜が・・・・・」そう言うと先生はうふふと笑った。世界中のすべてが、この天女様を祝福しているようだった。これほど美しい人は他にいないだろうと思った。
天羽先生がほほ笑むと、空気が変わるような人だった。
秋田美人
生徒にもひときわ目立つ子がいた。秋田から来た美人の春子ちゃんだ。先生がひとりひとりの名前を呼びながら顔を確認していく。
「春子さん、素敵なお名前ね」
春子ちゃんは答えた。

「北国では春を待ち焦がれます。そんな人になりなさいと両親がつけてくれました」春子ちゃんが説明すると、先生はニコニコしながら言った。
「春子さん、わたしね、自分よりも美人を見たことがなかったの。でも、生まれて初めて自分よりも美人を見たわ」そう言われた春子ちゃんは呆れたように肩をすくめて何も答えなかった。
いつも美しいと言われて飽き飽きしているのだろう。
「マリアさん、マリアさん」と聞き慣れない名前で天羽先生が呼んでいる。
早苗はやっと自分が呼ばれたことに気がついた。
先生は言った、マリアさん、書類の早苗というのはなんですか?
「はい、先生。それは祖母がつけた名前です」
「ではこのマリアというのはなんですか?」
「はい先生。それは母がつけた名前です」
「では、本名はマリアさんなんですね。中学生からは国家試験もありますので、ちゃんと本名を書くようにしましょう」
「それからマリアさんこの町東十五という住所はなんですか」
「はい、それは町の中央部から東十五軒目が私の家です」
都会から来た天羽先生は あらまぁおかしいと笑うと、
「ちゃんと大字小字で書きましょうね」とみんなに指導した。
みんなは大字小字で住所を書き直したが、後に、郵便屋さんや配達の人から、住所が分かりにくい。届けにくい。と言う苦情がきて、住所の書き方は、今まで通りみんなが使い慣れた町中央から何軒目と言う書き方に戻った。
住所の書き方は戻ったのにマリアの名前は戻してもらえなかった。同じような子が何人かいた。
ずっと葉子ちゃんだと思っていた人が洋子さんだった。そんな人がたくさんいたから、早苗も特別珍しい例ではなかった。とはいえマリアという名前は、あまりにもハイカラで恥ずかしかった。
奪われた名前
その日の帰りに、おばあちゃんの家に立ち寄って、その話をした。
するとおばあちゃんは、部屋の奥から早苗が生まれた時に買ったオルゴールを取り出してきた。オルゴールは金色のピアノで、蓋を開けると赤い絨毯が敷き詰められていた。あまりにも大切で、触ることすらせずに大切に引き出しにしまってあったものだ。
その金色のオルゴールを裏返すと、そこにはおばあちゃんのつけた早苗という名前が刻印してあった。
おばあちゃんはおもむろにその名前にマジックで二重線を引いた。そしてマリアと書き直した。
「マリアとして生きていきなさい」そう言ってオルゴールをマリアに手渡した。

その時初めてマリアはおばあちゃんの前で声に出して泣いた。早苗という名前は、おばあちゃんが自分の子供にするんだと言ってつけてくれた名前だった。それを捨ててマリアとして生きなさいと言われたのだ。
その時から早苗はマリアとして生きることになった。
新しい習慣
ソックスをはこう
マリアは中学生になり、自転車通学になった。おばあちゃんの家にも立ち寄りやすくなったのがうれしかった。
入学する前に、いくつかの買い物をした。制服のセーラー服、夏のプリーツスカートを一枚。
そして、ソックス。
マリアはちゃんと靴下を履くのは初めてだった。もちろん今までも誰かのお葬式だとか、よそ様のおうちに入る時、そんな時はソックスを履いたことがあったが、二時間位しか履いたことがなかった。
中学生になったら、学校の制服として、毎日ソックスを八時間も履かなくてはならなかった。履き慣れないソックスはもぞもぞして気持ち悪いものだった。
子供たちは、ソックスを履き慣れるまで、誰もが落ち着かなくモゾモゾとし、すぐにソックスを脱いでしまった。そして先生から怒られるのがお約束だった。マリアもソックスを頑張って履いた。
家に帰って解放感とともにソックスを脱ぎ捨てると、ヒーローはいつもそれをおもちゃにした。

プレハブ小屋の転校生
その中学校には町中の子供が全部集まったマンモス校だった。都会から来た子供や隣町からきた子供たちもいた。
春子ちゃんも進学を機に、母親の義両親の元に送られた。まだ十二歳になったばかりの女の子が、一人っきりで田舎町に放り込まれたことが、マリアには良く理解できていた。かつての自分がそうだったからだ。
マリアは春子ちゃんとすぐに友達になることが出来た。

春子ちゃんは今まで納戸として使われていた離れの、掘っ立て小屋を片付けて住んでいた。粗末なプレハブだった。太陽光も寒気も容赦なく入ってくるアルミ製のプレハブだった。
だけど、その離れには、女の子が喜びそうなロマンティックなベッドや花柄のカーテンがかかっており、春子ちゃんのおばあちゃんなりに工夫してくれた様子が見られた。
春の離れ小屋は、気持ちよく暖かで、自由に騒ぐことができて快適だった。
やがて、マリアは春子ちゃんの小屋に毎日立ち寄るようになった。時々愛犬ヒーローもお邪魔した。
春子ちゃんは陽気な性格で、辛気くさいのが一番嫌いだった。エレクトーンが上手で練習をするときに
「静かだと辛気くさいから」と言って、マリアにタンバリンを叩かせた。
マリアは言った。
「ねぇ、かえってうるさくて練習しにくくない?」
春子ちゃんは、そうだなぁとちょっと考えた後、
「じゃぁカスタネットにしよう」と言った。
それならばと納得して、マリアはなぜか毎日、春子ちゃんのおばあちゃんの家でカスタネットを叩いていた。
それでもやっぱり
「ねぇなんで静かだと辛気くさいの?それにやっぱりこの音って邪魔じゃない?」と尋ねると
春子ちゃんは、カスタネットはメトロノームの代わりにちょうど良いのだと言った。
ハワイ土産
マリアのおばあちゃんの家には、誰かがハワイから持ち帰ったマラカスがあった。何度かシャカシャカ鳴らしてみたが、あまりにもうるさいので、そのまま引き出しの中にしまわれていた。
マリアはそのことを思い出し、おばあちゃんにマラカスをもらった。おばあちゃんは厄介なものを受け取ってもらえると知って喜んだ。
マリアはマラカスを持って春子ちゃんの家(母屋)に行った。
エレクトーンの練習の時にカスタネットの代わりにマラカスを振り回した。
するとひどく不規則な音がでた。ヒーローまでもがマラカスは大音量すぎて、それはダメだと言う顔をした。

すると、さすがの春子ちゃんも
「やかましすぎるわ!」と言って、マラカスは禁止となった。そのマラカスは、今度は春子ちゃんの家の引き出しの奥にしまわれることになった。
マリアは時々、いたずらにそのマラカスを取り出して、シャカシャカと大騒ぎをして春子ちゃんをからかった。
マリアの生きざま
破れた下着
中学校に入るときに、もう一つ大切な買い物があった。セーラー服の下に着ることのできるシュミーズだ。今で言うところの機能性下着のようなものだと思ってもらったらわかりやすいと思う。
つまり、それは必須のアイテムだった。
ところが、マリアのお母さんは、赤ちゃんで手一杯で、下着の話を何度しても
「あぁ、うん」
と生返事ばかりで、次の瞬間には忘れてしまっていた。
マリアは仕方なく破れた古い下着をそのまま着ていた。
「マリアちゃん、そのシュミーズ破れてるよ」
クラスメイトが何度も教えてくれたけど、マリアも
「あぁ、うん」
と言っておくしかなかった。
野犬との戦い
その日、マリアとヒーローは、春子ちゃんの小屋にお邪魔していた。小屋の前を野犬がうろついている。マリアは
「危ないな」と少し警戒していた。
春子ちゃんは都会の子だったので、野犬の恐ろしさを知らなかった。
特に子供を産んだばかりの母犬は恐ろしく、田舎では絶対に触ってはいけないということをみんな知っていた。
都会っ子の春子ちゃんは、それを知らずに
「かわいい」と言って
子犬に触ろうとした。

怒り狂った母犬が飛び出してきた。唸り声をあげて。今まさに春子ちゃんの喉笛に噛み付こうとしたときだった。ヒーローが吠え、マリアは丸太を手にした。
ヒーローは大きな野犬の後ろ足を噛んで飛びのいた。マリアは丸太を振り下ろした。
マリアはヒーローと力を合わせて野犬をやっつけた。
荒く息をしながら、手早く野犬たちを取りまとめると、お役所に持っていって、四百円を手にして帰ってきた。
マリアがポケットに入れたしわしわの百円札を春子ちゃんに渡そうとすると、春子ちゃんは怯えたように首を横に振った。
そうか、このお金があると、かえって怖いことを思い出してしまうんだ。そう理解したマリアはその百円札をまた自分のポケットにしまった。
だが、この時に春子ちゃんの中では、違う疑念が湧いていたのだ。
いつもお気楽で幸せそうに見えたマリアが、本当は過酷な環境を生きている人なのではないかという疑念だった。
生や死から目をそらさず野犬に向かっていく姿は、生ぬるい人生を生きてきた人の姿には見えなかった。
中学校に入って急に変更された名前も、破れたシュミーズも、マリアの環境が過酷ならと仮定すると、パズルがはまっていくように解けていった。

