ねばならない女は結婚できなかった
学生さんたちは言う。
「もしも願いが叶うなら、何に使おう。何を願ったらいいかわからない」と。
そうですよね。わからないと思います。その答えが見つかるのはおそらく30年後であって、そしてその時はもう間に合わないので、わたしが言います。
「願い事は迷わず、愛に使いなさい」と。
それ以外のことは、特別に願わずとも、ほどほどにやれますよ。生きてゆけるぐらいにはね。
でも、愛だけは、ここぞという時にしか手に入らないからです。
わたしの愛はこうでなくてはならないという呪縛
でも、わたしが人生をもう一度やり直したとしても、愛を見つけることはできません。なぜなら、わたしには
「ねばならない」ことが多すぎるからです。
今から書くことは反面教師ですよ。
- 経済的に自立してからしか愛を見つけてはならない。年収350万円以上の自分になってから
- 精神的に自立してからしか愛をささやく資格はない。一人で寂しいと思わなくなってからが大人
- 世間からも親からも認められるものでなければならない
- 一目ぼれではなく、論理的に説明できるものしか愛ではない
- 宗教的倫理観に沿うものでありたい
- 素晴らしい笑顔と完璧なプロポーションで恋愛市場に出たい
- 自分も相手も純潔でありたい
はい、このへんでうすうす気づかれるかたもおられるでしょうが、そうなんです。わたしはエロスを持ち合わせていないんですよ。エロスを完全に抜き取った形での真実の愛を証明したいので、自分の内臓を誰かにあげるとかで、愛を残せたらいいなと思っています。
わたしが地球に残せる愛は、それぐらいしかないかなって。
もちろん、役立つ記事を残すことも、一つの愛の形ではありますけれど。
それともう一つ。お話しがバラバラになりますけれど、大事なことだと思うので、ここで書いてしまいます。
わたしは、3つの願いの3つともを人のために使うような、いい子ちゃんだったんです。これは間違っています。結局、誰も幸せにしない結果になるのです。
ひとつだけは、ひとつだけでよいから、自分のために使うのが良いですね。まず、自分が幸せになっていいんですよね。そのことを知るのが遅すぎたのが、わたしのダメなところだったなと思います。